CRIME OF LOVE 5
飲みかけのボトルが望美の手からすべり落ちる。こぼれた水がシーツとカーペットに染みを作ったが、ふたりともまったく気にかけてはいなかった。
「え、何言って……?」
望美の声には信じかねる響きがある。無理もない。しかし急速に覚醒はしたようだ。望美の問いかけなど聞こえなかったように彼は続けた。
「これを使えば、時を跳べるんだろう?」
片手から下げられた白龍の逆鱗。望美がはっと胸に手をやる。 ペンダントというには少しおおぶりなそれが自分の体から離れていたことは、言われるまで彼女の意識の外にあった。
(知盛、だめ……!)
一瞬後にも知盛が消えてしまうのではないかと本能的な恐怖にかられて叫びそうになったが、喉に声が絡んで出ない。
思い出の詰まった大切なお守りみたいな気持ちで、望美は今でも時おり服の下に逆鱗をつけていた。だがそれは時空を跳躍する意志を示したものではない。知盛が隣にいる限り、望美に逆鱗を使う理由は存在しない。逆鱗の力について、むろん知盛には話してあったものの、こんなふうに知盛から迫られる時があろうとは、望美は夢にも思ったことはなかった。
しかしあせりに瞬間張り詰めた彼女の様子に気づいたのかそうでないのか、知盛は望美の手にあっさり逆鱗を返してよこした。あからさまにほっとした望美に、からかいめいた口調を投げた。
「持ち主のおまえに、無断で使うわけにはいかないからな……」
けれど彼女を見据える目は、肌をあぶる懊火のようだ。口とは反対のそのまなざしが、望美の不安をいっそう強くかきたてる。ふいに知盛は表情から揶揄を消した。
「望美、いや白龍の神子。あらためて言う。その逆鱗を俺にくれ。俺があの時空(とき)に帰るにはそれがいる。おまえにはもう、不要のはずだ」
「どうして……!」
ようやく声が出たものの、すでに思い出となったはずの呼称で呼ばれ、逆鱗をぎゅっと握り締める。急な話に内容がよく飲み込めず、むやみに問いを重ねることしかできなかった。
「帰るって、どういうこと? あの世界へ? 戦いの……中に? ねえ、何かあったの、教えてよ。今になって、何で急に。それも……ひとりで?」
声はだんだんと大きくなり、最後にはほとんど叫ぶように言った。
「どうして、なぜ? 理由(わけ)を聞かせて!」
急に見知らぬ人のように見え始めた恋人の姿にうろたえ、とまどいながら、望美はそれでも何とか男の心を探ろうとした。気まぐれな言動で彼女を翻弄することも少なくなかった知盛だが、目の前の彼が冗談や思いつきを言っているのではないことは明らかだ。
しかし望美の混乱とは対照的に、知盛は静かに、どこか投げやりに告げた。
「そうだ……な。俺は元々この世界の人間ではないからな。結局は合わなかった……ということだろう」
「そんな!」
望美は必死に訴えた。
「ずっと暮らしていれば、いつかきっと合うようになるよ……っ。あなたの生きる時空(とき)はここだって、私と一緒に生きてくれるって、決めたんでしょう?」
「そのつもりでいた。だが……無理だった、それだけだ」
あまりにも簡単に返され、望美は目を見開いた。彼女と共に過ごしてきた、これまでの年月のすべてさえ否定するかのような知盛の台詞。とても信じられなかった。
知盛は気だるげに髪をかきあげた。
「平時では息を止める人間もいる……そういうことだ」
「でも……でも」
何とか否定したくて、けれど言葉は続かない。
かつて戦場にあった彼は綺麗だった。昂ぶる血と心のまま華麗に双の太刀を振るい、敵手にすら戦いの歓喜をまざまざと見せつけながら、生と死の狭間に渡された細い刃の上で、不敵に大胆に、命を燃焼させて戦っていた。
戦いの場でのみ息を吹き返す、知盛の中の美しい獣。けれどそれを見るのをあきらめたのは、幾人もの彼を失った悲しみに耐えられなくなったから。だから何とか彼を生に繋ぎとめ、自分のものにしようと決めた。
和議を進める運命で出会った知盛は、彼女との思い出を何も持たない知盛ではあったけれど、彼女を認め、愛してくれた。争いのない世界で、これからもずっと彼と生きていけると思っていた。
でも彼女がつかんだ平穏こそが、知盛を追い詰めていたと? この世界も彼女も捨て去ろうと決意させるほどに、しかも予告めいたものすら何一つ示さず、突然に――。
望美の声は思わず弱々しいものになった。
「私に……何も言わないで……」
その通りだと答えれば、よけい望美を傷つける。すがるような視線を受けて波立つ胸の奥の鋭い痛みを押し殺しながらも、彼は平静さを保った。間を置くように、立ち上がって転がったボトルを拾い、脇のテーブルに置いた。
「……檻の中で飼われるのは、生きているうちに入らない、だろう? 戦う場も牙もなくした俺は……腑抜けに等しいさ」
「檻って……誰があなたを飼っているっていうの……」
「この生活……だな。ここにいる限り、俺は生ぬるい檻の中で飼われ続けているも同様だ。そうでなくなるには、安定したこの国から離れるか……この時空から離れるか、だ」
「知盛!」